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差別反対を叫ぶ者達はフリーセックスすべきだと思う件

差別反対を叫ぶ者達はフリーセックスすべきだと思う件

 

誰とセックスするのかを選ぶことは、とても差別的な行為である

自分は、「個人の自由意志としての差別」を認めない者達が嫌いです。

ほとんどの人たちは、フリーセックスをしていないからです。

 

差別は、いたるところに存在します。

誰と会話するか、誰と食事するか、誰と遊ぶか、誰とセックスするか、誰と家庭を作るか。

凡そ人間の営みのすべてが、差別に根差しています。

その感情を無視して「差別をなくせ」と叫んだって無駄です。

差別は、本能です。

本能を捻じ曲げようとしても、無駄です。

 

 

差別反対を生徒に刷り込む学校教師は、フリーセックス論者であるべき

もし教師に「〇〇ちゃんを仲間外れしちゃダメでしょ?仲良くしなさい。」

と言われたら

「おまえはフリーセックス論者なのか?」

と言い返したらいいです。

 

 

学校教師は、ことあるごとに差別や仲間外れを批判します。

「だってあいつのこと嫌いだもん」

が許されません。

「誰とでも仲良くしなさい」

と言われます。

 

冗談じゃありません。

(公立小中の)子供達は、地域が近いという理由だけで集まっているだけです。

仲良くやりたくて集まっているわけじゃありません。

誰を仲間に入れるか、いれないかは自由であるべきです。

 

もちろん、暴力、暴言などの違法・触法行為はマズいです。

でも、「〇〇ちゃんと遊ばないようにしようよ」というのは、許されていいはずです。

法的に何も問題ないはずですし、そういうのは大人の世界だってよくあります。

アメリカが良くやる手段です。

 

「差別するな」「〇〇ちゃんと仲良くしなさい」というのは、教師が学校内を統治しやすくするための方便だと自分は思います。

もっといえば、国家が国民を統治しやすくするための洗脳だと考えています。(・・・が、これについては論点がずれるので、またの機会に書きたいと思います。)

 

そんなものに従う必要はないはずです。

 

 

行政による差別と、個人の自由意志としての差別は分けるべき

ここでひとつ言っておきたいのですが、自分は行政による差別には反対しています。

これについては憲法を持ち出すまでもない。

歴史をみれば、行政による差別(特に人種差別)がどのような結果をもたらすかは明らかでしょう。

 

また、個人の自由意志としての差別であっても、暴力・暴言などの違法・触法行為には、自分は反対しています。

ハブるのは許されるべきですが、暴力は許されるべきではない。そう考えています。

 

とりあえず、これに異論のある人は、今日からフリーセックスしたらいいのです。

誰とでも挨拶するように、誰にでも股を開いたらいいのです。

 

 

誰とセックスし、誰とセックスしないのかは自由であるはずです。

誰と会話し、誰と会話しないのかは自由であるはずです。

そこをわけて考えることは、理屈が通りません。

矛盾しています。

 

そもそもにおいて、差別の根源は家庭にあります。

一夫一婦制で家庭を作る、ここからすべての差別が始まります。

本気で差別をなくしたいなら、すべてが混ざり合う社会を実現したらいいのです。

 

フリーセックスをしないなら、「個人の自由意志としての差別」には、反対すべきではないと思います。

以上。