「カワイイ」には往々にして上下関係が成立する~ある意味で侮辱ですらある~
人が何かを「カワイイ」と感じる時、そこには往々にして上下関係が成立する
あんまり経済ネタとは関係ありませんけど
書きたくなったんで書きます。
twitterみてたら、トピックにこんなtweetが流れてました。
https://twitter.com/chi_mama__/status/1604026168780677120
この方の幼稚園はカトリック系なんでしょう。
生誕劇の発表があったとのこと。
その時に園長さんが
「微笑ましさから笑いたくなることもあるでしょう。けれど、園児たちにとってはその笑い声で『嘲笑された』と思って心が挫けてしまったり、頭が真っ白になってしまったりすることもあります。祈りの気持ちを込めて、笑わず、静かにご覧ください」
と仰ったとのこと。
とても正しいと思います。
世の中には、「視る者」と「視られる者」の非対称性が覆せない場面が所々あります。
その非対称性が覆せない場面において、「視る者」による上下関係の意識が入り込む。
「視られる者」に対する笑いが生まれる・・・
素晴らしい演劇であれば、「視る者」と「視られる者」は、いつの間にか一体化していく。
しかし、子供の園の出し物演劇にそれを求めることは無理でしょう。
「視る者」(大人)は、「視られる者」(子供)への上下関係を常に意識してしまう。
結果として、脚本や演出など全般を含めた作品全体に対する笑いではなく
演者の可愛らしさ、微笑ましさに対して笑いが注がれることになる。
それは、子供に対する侮辱に等しい。
私はそう思います。
「カワイイ」はある意味で侮辱を孕む
上記tweetに対するリプは以下のよう。
https://twitter.com/warabino_tomoko/status/1604093292026920960
子供ながらに笑わないで!と怒っていました。それなのに親は口角を上げています。バカにされている。対等に扱われていない。私の意見は無視されている。そうなんです!嘲笑されている。園長先生有難うございます。子供は真剣なのです。笑わないで下さい
— 花ちゃん (@hepo0328) December 17, 2022
https://twitter.com/macaron_pomu/status/1604113947858456578
長男も弟達のおゆうぎ会の動画で、可愛い振り付けの時に保護者達が笑った時に『今何が面白かったの?』と聞いて来ました。
笑う=面白い、なんだなぁと。微笑ましくて笑うって感情がまだ分からないんだなと感じました。— あんりママ (@TXvEsuXfb6MlZud) December 17, 2022
昔実習で行った園で幼児組(縦割り保育)の子がクラスみんなの前で歌を歌った時、他の子達や先生が微笑ましくてニコニコ笑っていたら突然女の子が怒った。「一生懸命なのに笑わないで!」
その後みんなピシッと真顔になって女の子は歌いきってた。そういう風に感じるのかぁと驚いたこと思い出した— めぐ@さくら4ママ (@megumyyy) December 17, 2022
https://twitter.com/sakuranbonokai/status/1604134986554036227
皆、嫌な体験を少なからずしている。
実際、私も子供の頃に嫌な気分になったことは何度もあります。
というかそもそも、見世物に使われること自体が嫌でした。
あるとき、保育園の出し物でマーチングバンドをすることになりました。
私はその先頭を任されることになったのですが・・・
登場直前にスト起こしてわざとイベントを潰そうとしたんですwww
先頭が進まなければ困るのよ!と保母さん達が困っていました。
結果、私を抜きにしてマーチングバンドは始まっちゃったのですが、
さんざん皆で練習してきたことを直前にぶっ壊そうとしたことで私は酷く叱られましたし、周りの子からも嫌がられました。
けど、自分にとってはシテヤッタリな気分でした。
子供を見世物にしようとする方が間違っているんです。
もともと自分自身はお調子者でしたし、笑ってもらえること自体は好きでした。
(人を怒らせたり困らせるのも好きでした…)
でも、園の出し物とかは凄く嫌でした。
潰してやりたいって思うくらいに。
当時は、漠然とした反抗心ゆえの行動でしたけど
いまなら何となくわかります。
当時の自分は正しかった、と。
自分が笑われようとして笑われるのと、誰かに使役されて「視られる者」になり、意図せず笑われることは、意味が違ってくるんです。
そうした笑いは、侮辱です。
仮に「可愛らしい」と感じて生まれる笑いであっても、それは侮辱です。
だって、上下関係を基にしているんですから。
そこに抗議するのは当然です。
幼いながらに、子供達は皆それを感じ取っているんです。
でも大人になると、そうしたことに対して怒るのは大人げないと、諫める方向になりがちです。
「みんなあなたのことを可愛いと思って笑っただけなのよ」と。
冗談じゃありません。
重要なのは主体と客体との関係性。
視る者と視られる者の関係性。
その上下関係を基にした笑いが失礼に当たらないという主張はありえないでしょう。
もしそれが失礼でないのなら、天皇なり総理大臣なり社長なりが挨拶しているのをゲラゲラ笑ってやればいい。
それで「可愛らしいから笑っただけ」とか嘯いたらよろしい。
それが侮辱や失礼にあたらないか?
んなわけないでしょう。
他者を笑うことと同様に、他者の動作を可愛いと感じる基準にも、無意識のうちに主体と客体との関係性を持ち込んで判断しているんですから。
理屈を捻じ曲げちゃいけません。
大人よりも、子供の野生の感覚の方が理屈的にも正解です。
大人になると、色々弁えて理屈を捻じ曲げているだけです。
もっと直感的な怒りを信じた方がいいんです。
子供を見世物に使い「カワイイ」と眺めるのは虐待
ぶっちゃけ
演劇にしろ運動会にしろ、子供を見世物にするのはやめてしまえ
と思います。
ある意味で、子供の精神に対する虐待だと思います。
もし演劇や運動会などの見世物をやるのなら、
それをすることで笑われる可能性があることを十分に子供達に周知したらいいんです。
笑いの背景にある関係性や、カワイイと感じる理由
そのあたりを理解させて、それでも見世物にされたい子供がいれば、その子だけがやればいい。
こんなことをいうと、「演劇は教育的に重要だ」という人もいるでしょう。
実際、海外の学校でも演劇を教育に取り入れているところはある。
もしそういう教育的な意図で演劇をやっているのなら、保護者にみせずにやったらいいんじゃないですか。
もし保護者たちに見せる、見られることが教育的に重要だというのなら、
ペーパーテストの結果も全部掲示して、保護者達が子供たちの結果をすべてみられるようにしたらいい。
なぜペーパーテストを廊下に貼りだすのはしないのに、
運動会や学芸会を保護者達に見せるのか。
要するに、保護者達が子供達を見世物として見たいからでしょう?
学校側、園側が保護者の求めに媚びているだけじゃないですか。
好い加減、そうした悪弊はやめたら良いと思いますけどね。
以上。