【私見】ハゲタカジャーナル問題はインターネット革命の一側面か
ハゲタカジャーナル(predatory journal)問題に柴山文科相が注意喚起
杜撰な論文審査を掲載することで対価を受け取る学術誌、ハゲタカジャーナル(predatory journal)の問題に関し、柴山文科相は各大学に注意喚起を行いました。
大学に注意喚起 文科相 毎日新聞 2018年12月25日
この件では先に新潟大学が粗悪学術誌への投稿を禁止するなど、各大学側による出版先の絞り込みが進んでいます。
粗悪学術誌への投稿禁止 新潟大、指針作成 日経新聞2018年12月2日
ハゲタカジャーナル(predatory journal/捕食出版社)とは?
ハゲタカジャーナルとは、査読をほとんどしないのに論文掲載料だけ受け取って、インターネット上に論文を掲載する業者のことをいうそうです。
10年くらい前?からこういったハゲタカジャーナルはありましたが、ここ数年で一気に増えてきており、一説によれば2014年には約8000の捕食学術誌から推定42万の論文が出版されたそうです。
‘Predatory’ open access: a longitudinal study of article volumes and market characteristics
こうした行為は科学の発展を歪め、科学への信頼を貶め、ついては人類の進歩に悪影響が及ぶとしてこれらを禁止しろという声があります。
今回の柴山文科相の発言や、大学レベルでのハゲタカジャーナル規制などは、そうした価値観を反映したものといえるでしょう。
そもそも査読って?
なお、たぶん一般の方には馴染が薄い(もちろん、中卒のおいらにも薄い)査読についても書いておきます。
査読は、簡単にいってしまえば、同業研究者によって自分の研究内容をチェックしてもらうことです。
一般的に、研究者は研究した内容を発表するために、学術誌に論文を掲載してもらうよう頼むことになります(※1)。
学術誌は受け取った論文をまず編集者がざっくり判断し、自分のところの学術誌で取り上げるべき内容かどうかを判断します。
編集者がふさわしい内容と判断した場合、その後は査読を担当する研究者を探します。(当然、同じ研究分野から選びます。ふつーは。)
査読者(レフェリー)はこの論文を受け取ったのち、受理すべきか、訂正すべきか、拒否すべきかを判断して編集者にそれを伝えます。
通常は査読者が一発で受理すべきということはほとんどないと言われ、拒否もしくは訂正を求めることが一般的と言われています。
訂正を求められた場合、論文執筆者は再度期限内に反論なりデータの補足なりをしっかりした上で再提出することになります。
このプロセスを繰り返すことが、研究職のお仕事ということになります。
※1・・・なお、その分野によって微妙な違いはありますし、時代によってやり方も変化しているのですが(例えば最近は天文学の方面などは、近年では査読付き論文掲載は後回しになっていたりなど)、基本的にはこういったプロセスを踏むことが多いと思います。
学術誌に査読付き論文をどれだけ載せたか、引用がどれだけあったかが研究者の格を示す⇒ハゲタカジャーナルと無意味な引用が横行する事態に
で、この査読付き論文をどれだけ発表しているか、その論文がどれだけ引用されているか、そこらへんが研究者の格を表すというのが、研究職のお仕事なわけです。
たくさんの査読付き論文を発表し、それをたくさん引用されたら、その研究内容に意味があるということを客観的に示せるのです。
いうなれば、twitterやFacebookのリツイート数の数を競うようなもんです。
しかし、twitterやFacebookと異なるのは、そもそも投稿するだけでも査読者の評価が必要という点。
投稿したくても査読者が反対したら投稿できないSNS・・・それが学術論文と研究職の世界と考えたらいいわけです。
(なお、一部の学問分野ではこの限りではありません。先に研究成果を発表して、あとから正式な論文に纏めるような分野も出てきています。)
そして、SNSとさらに異なる点として、この査読付き論文をなんぼ出したか、引用数がどれだけかということが、その研究者の人生を左右することになるというわけです。
沢山の引用がされている査読付き論文を発表した研究者は客観的にみて優秀といえるのです。
そうすると研究費ももらえますし、職もみつかりやすい、それが研究職の世界です。
もっというと、そういった査読付き論文の発表という成果を出せなければ、いずれ消え去らねばならないのが研究職というわけです。
だからみんな必死です。研究者として生きていくために。
以下、完全に私見です。思うところあって長文になってしまいました。読まない方がいいと思います。
ハゲタカジャーナルは時代の要請だった可能性
で、最初の話に戻ります。
ハゲタカジャーナルの話です。
自分はこの報道を見た時、
「査読付き論文至上主義の価値観が、もしかしたら時代変化についていけていないのではないか」
というふうに感じました。
査読付き論文至上主義には意味があったし、ハゲタカジャーナルに問題が多いのはわかる。しかし・・・
もちろん、ハゲタカジャーナルの問題点が多いこともわかりますし、これまで査読付き論文文化で大きな問題が起きたとも思いません。
むしろ、科学の着実な発展に寄与してきたと思っています。
しかし、今までが成功したシステムだったからといって、今後も腐敗を生まないとは限りません。
なにより、査読付き論文の世界は、人間が行う作業です。
ある種のバイアスがかかるのはしかたない面があります。
査読者はなるべく競合する研究者からは選ばないことになっていますが、査読がほぼ匿名で行われることから、本当に、まったく競合していないかどうかは外部からは誰も見破れません。
査読者本人、もしくは仲のいい研究者の成果を否定するような論文であった場合、否定的な見解が付与されるリスクは常にあります。
査読付き論文至上主義もハゲタカジャーナルも、所詮は特定の人間に頼った非科学的プロセスに過ぎない
つまるところ、査読付き論文至上主義っていうのは、特定の人間に頼った、非論理的・非科学的なプロセスに陥る可能性を含んだものである、と自分は思っています。
政治でも科学でも権力は腐敗します。
その腐敗は、私利私欲である場合もありますが、往々にして、倫理観が前に出てくることが多いように思います。
何が正しいかよりも、何が正しいのが好ましいか・・・そういった人間的な感覚が科学の新しいステップアップを否定することは長い長い歴史でいくらでもありました。
幸いなことに、20世紀の人類は進取の精神にあふれ、人間的な感覚よりも科学的探究への純粋な欲望に溢れた成果がいくつも生み出されました。
しかし、何度もいうように、査読論文文化は人間的なプロセスです。
科学的に最善なプロセスであるとは思えません。
今は、もっといい方法があるのではないか。
そうした揺れ動く論文文化のなかから生まれたのが、ハゲタカジャーナルの問題だったのではないか、という気がします。
ハゲタカジャーナルはインターネット革命の一側面ではないか
思うに、ハゲタカジャーナルの問題は、インターネット革命の一側面であるように思います。
つまり、超巨大なメインフレームが中心だった時代から、一般企業クラスに汎用機が入った時代・・・これは80年代90年代に起きたことですが、いわゆるクライアント・サーバ型のシステムが今の学術分野で進んでいるのではないか、というふうにみています。
もしそうであれば、今後進んでいくさきは、クライアント・サーバ型からピアツーピア型への移行であるはずであり、もしそうであるなら、論文投稿先を国や大学が制限することは危険である可能性が高い、ということになります。
ハゲタカジャーナルを否定するあまり、論文提出先を絞り込むのは危険すぎる
個人的には、ハゲタカジャーナルにはまったくいい気がしません。酷いと思います。
しかし、これまでのメインフレームによるサーバ・クライアント型を維持するのは、さすがに反動的過ぎるように思います。
今後は、ピラミッド構造を壊して、よりフラットなピアツーピア型の相互チェックが可能なシステムに移行していけばいいのではないか?と思います。
インターネットの発達と、大量の余剰研究者の存在が、それを可能にしてきているのではないか、と思います。
一流誌⇒ハゲタカジャーナル⇒オープン化による相互チェックへ
思うに、あらゆる研究は、さっさとネット上でオープン化されてしまえばいいのです。
オープン化して、市場原理に任せて、研究内容を相互チェックしたらいい。
科学の進む道を決める政治的なプレッシャーは、科学者相互のチェック&バランスで決めればいいんです。
中央集権的な現在の査読論文文化と比べて、遥かに科学的なプロセスだと思います。
重要なのは、科学者一人一人の良心と熱意に期待するという点。
科学者が人間的な感覚に堕落しない限りは、きっと上手くいくはずです。
既にそういった方向で走り出しているプロジェクトもあります。
ハゲタカジャーナルへの研究費支出問題なんて、論文提出先を絞ることの弊害に比べたら些末な問題
政府文科省や大学は、論文の提出先を絞り込むのではなく、自由にさせたらいいんです。
ろくでもないハゲタカジャーナルに研究費を使って論文を提出した連中は、仲間内から笑われるだけです。
それでいいと思います。
論文提出先を絞り込むことの危険性に比べたら、その程度の研究費の無駄遣いは大した問題じゃありません。
物事をちっこく見る癖はやめるべきです。
市場に任せておけば、必ずうまくいきます。
一番危険なのは、権威付けする態度と、権威付けを求める態度です。
それは芸術でも科学でも、あらゆることについて言えることです。
政府は、なにもいわんでいいんです。
そう自分は思います。
長文失礼しました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
以上です。