「教えて」と言ったら怒られた子供時代
自分の子供時代のことを書きます。
自分は、母から何かをみっちり教えてもらった記憶がありません。
母は、とにかく「真似しろ」「盗め」という態度でした。
たとえば料理でも、なんでもいいんですが、
自分が「教えて」と言えば
「私がこのあいだやっていたのをみてなかったの?」
「本気でやる気があるならちゃんとみているはずよね?」
「見てわからないなら、あなたはその程度の頭ってことよ。」
「教えれば私の時間がなくなる。教わるっていうのは相手の時間を奪うことなのよ。」
「技術は盗むものよ。」
といった感じで怒った口調で返ってきました。
もう聞く気も失せます。
聞くだけ無駄です。
自分はこうした母の教育方針に対し
「原始時代から人類が積み上げてきた技術をすべて自分は再発見していかねばならないのか・・・」
と絶望しました。
とりあえず、自分で全てを発見するのは非効率的すぎますから、基本は書物を頼りました。
そして、書物と現実との違いを発見し、そこからさらに発展して知りたいことは誰かの真似をするしかない・・・そういう教育環境でした。
母はこんな教育方針ですから、塾のような「ノウハウを売る商売」にも拒絶感を示していました。
自分は塾に行ってみたかったのですが、「塾に行きたい」と打ち明けることもできず・・・
他の子たちは塾に行かせてもらえてましたし、親や兄弟が勉強を見てくれたりすると聞いて、羨ましいなぁ・・・と感じたものです。
教えてくれるのが当たり前な世の中
さて、そんな自分も中学を卒業して、色々な人に出会いました。
その出会ったすべての人というわけではないのですが、どうも気になる人達がいました。
なんというか、教わることが当たり前な人達です。
「教えてくれるのが当たり前」
「教えてくれないのはケチ」
「ちゃんと教えないのが悪い」
「言われてないからわからない」
「初めてなんだから仕方ない」
みたいなことを言う人たち・・・
でもそういう人は、なんか弱い。
同じような失敗を繰り返します。
自分では同じ失敗を繰り返していると気づかないけれど、私からみると同じ失敗に見える・・・
自分の目でじっくりみないから観察力が鈍っているし、
自分の頭で考えないから応用力がない、工夫がない。
上記のようなことを言う人は、一度ガツンとやられて心を入れ替えないと、やっぱあんま伸びない。
自分は、子供の頃はかなり辛くて寂しい思いをしましたが、
今になって考えてみると、「盗め。自分で考えろ。」という母の教え方は素晴らしかったのではないかと思っています。
考えてみれば、どこの誰だって、肝要となる部分は門外不出にするもの。
そこは教わろうとしても教わることができないわけで。
書物や塾などで効率よく知識を集めた後は、それを咀嚼して、自分の脳味噌で構築しなおすしかないわけです。
ぜんぶを教えてもらえないと文句を言うというのは、やっぱり脆いと思います。
それは、子育てする側になってから、より強く意識するようになりました。
子育てする側になって考えること
自分はいま子育て中ですが、果たしてどこまで教えていいのやら、教えていけないのやら、難しいなぁと日々考えています。
世の中では早期に幼児教育をしていく家庭も多いようですが、果たしてそれでいいのか?という気がしています。
幼児・小学生向け教材なんかにしても、「問題を解くことで思考力を磨く」とか謳われていますが、果たして本当にそうなのか?
そりゃ、学習指導要領の範囲の学力を手っ取り早くつけるにはそれがいいのかもしれませんが。
それじゃ大人になってから困らないかな?という疑問があります。
自分は、やはり母の教えた方法を真似したいと思いますが、
果たして母の子育ての方法を盗めたのかどうか怪しい。
兎にも角にも、思い出しながらやってみるしかないな、という感じです。
中卒でさっさと家を追い出す。
それでもちゃんと生きていけるように育てる。
それを目標に子育てがんばっています。
以上。