旧優生保護法を非難するのなら出生前診断も非難すべきではないのか
旧優生保護法をめぐり、多方面から謝罪の声
かつて、障害のある人たちが不妊手術を強いられた時代がありました。※1
いわゆる旧優生保護法問題です。
この件に関し、政府、自治体のみならず、医学会連合など多方面から当時の責任を認め、謝罪する動きが出ています。
※1・・・個人的には何を以て「障害」と定義するかに関して非常に違和感があるため、「障害のある人達」といういい方が好きではありません。ただ説明しやすいように、今回はこの言葉を使っています。
旧優生保護法も出生前診断も根底に流れる思想は同じ
さて、ここで「障害とは何か」について考えてみていただきたいと思います。
障害とはなんでしょうか?
誰にとっての、どんな障害でしょうか?
自分には、旧優生保護法も出生前診断も、根底に流れる考えは同じものがあるとみています。
それはつまり「誰かにとってそいつの存在が障害だから殺してしまえ」ということです。
旧優生保護法においては、「社会にとって障害だから殺してしまえ」であり
出生前診断においては、「保護者にとって障害だから殺してしまえ」という考え方が根底にあると、自分はみています。
確かに、旧優生保護法において侵害されていた「産む権利」は、旧優生保護法の廃止により取り戻されました。
しかし、障害者が生まれてきて、精いっぱい生きる権利は、未だに取り戻されていません。
社会の都合、親の都合で、生まれる前に殺される・・・それが許されているのが現在の日本です。
旧優生保護法も出生前診断も廃止すべきだし、堕胎・中絶は殺人罪として立件すべき
自分は、中絶、堕胎はどのような場合においても殺人罪として処罰されるべきと考えています。
こんなことをいうと
「障害を負って生まれてくるのは可哀想」
「若者が妊娠したら育てられない」
「レイプされて妊娠したときはどうなるんだ?」
などという人がいます。
まったく論点がズレています。
まず第一に、障害を負って生まれてくると言いますが、すべての人はすべてなにかしらの障害を持っています。
完璧な人間なんぞいません。
そんなことを言ったなら、神様を生まないといけないことになります。
人はそれぞれ異なっているのが当然であり、どんな人間であれ生まれてくるべきです。
また、若者の出産だと各家庭で育てられないというなら、国家が保護して育てればいいのです。
この国では憲法で国民の権利が保護されているのですから、各家庭に委ねなければ生存や教育が行えないということ自体がおかしい。
どのような出自であれ、生活が保障され、教育を受ける権利が平等に得られるようでなければおかしい。
それができない状態というのは、国家が制度的問題を放置しているというだけの話であり、それを殺人行為の正当化に利用するのは倫理的にも論理的にも間違っています。
また、レイプの結果として中絶したくなったというのであれば、その事情は裁判時に斟酌すればいいだけの話であり、殺人という行為自体が為された事実を否定すると理屈が通らなくなります。
兎にも角にも、親や社会の権利ばかりが優先され、出産される側の権利が蔑ろにされた現行制度は非常に問題が多いように思います。
また、そうした状況をもとにされた旧優生保護法への謝罪は、まったく謝罪の論点がズレていると思います。
真に謝罪すべきは、生まれてくるはずだったのに生まれてこられなかった子供たちに対してであるはずです。
ここの部分が理解できていない謝罪は理屈が通りません。
そんな謝罪なら、しない方がマシだと思います。
出生前診断は一切禁止し、中絶、堕胎は殺人として立件すべきです。
以上。